※思いついたまま書いてます。何卒ご了承ください。
早いもので、もうあれから5年経過。そして私の歳もあの日の三沢光晴に追い付いてしまった。
歳は追い付いたものの、人生は雲泥の差。相変わらずのんべんだらりとした生活をしている私に比べ、46歳の三沢光晴は、プロレスリング・ノアの社長として、常に団体の最前線に立っていた。
「立っていた」た言うよりも、矢面に立たされていた、と言った方が良かったのかも知れない。末期の三沢光晴の体型は、「超世代軍」として全日本プロレスを背負っていた頃とは大きくかけ離れ、下腹に無駄な出っ張りが目立つだけの中年プロレスラーだった。歳だけではないものを感じた。
おそらくプロレスラーとしてよりも、プロレスリング・ノア代表取締役社長としての仕事に傾倒せざるを得なかったんだろう。面倒見の良かった人ゆえ、周囲の人間に気を遣わさないように無理をしてたんだろうな、とは思う。それこそトレーニングの時間すらままならなかったんだろうな。
そしてたった一発のバックドロップで何もかもに止めを刺されてしまった。いろいろ言われたけども、ぶっちゃけこんな事故にもならない限り、三沢光晴は休めなかったす、休まなかったろう。もしかしたら、誰かが試合中に「もういい、貴方はリング内外で十分戦った」と囁いたのかも知れない。
あの日のカープは、この二日間と全く同様に、西武ドームでライオンズとのセ・パ交流戦。週末土日の連戦で、私も初の西武ドーム観戦。デーゲームだったので夜行バスで往復での強行日程。
土曜日夕方、宿に戻る途中「プロレスで大変な事になってるらしい」とのメール。そして全てが判ったのは、観戦仲間との食事を終えて、再度宿に戻った深夜のインターネットの記事だった。
事故の数日前の大阪スポーツの一面に「三沢 引退」と出ていたのを覚えてます。ただ引退発表ではなく「体がキツイのでもうそろそろ、とは思ってるけど、辞めるに辞められない」苦しい胸の内を吐露した内容の記事。プロレスネタだけはガチな大阪スポーツ。とても笑うに笑えない内容だった。
二代目タイガーマスクだった三沢光晴の興した団体。
ジャンボ鶴田を倒したことのある三沢光晴の興した団体。
全日本プロレスの社長だった三沢光晴の興した団体。
肩書きは多数あるけど、それがプロレスリング・ノアのすべてであり、団体が出来て10年になろうとしているのに、それ以上でもそれ以下でもなく、そこから脱却出来なかった。ゆえに社長云々以前に、団体のエースとして三沢光晴か常に最前線に立ち続けなけれはらいけなかったんだんだろう。
どこの世界でも10年も経てば、ある程度の新陳代謝はなされるはずなのに、プロレスリング・ノアのトップと言えば相変わらず「全日本プロレス四天王(除:川田利明)」でだった。その「王道プロレス」全盛の頃川田利明が「こんな試合を続けていたらあと5、6年も持たない」とこぼしていたことがある。
それから10年以上は経ってしまったけど、川田利明の懸念がよりによって、そして残念な事に彼の高校の直接の先輩・三沢光晴によって現実のものとなってしまった。
たまにプロ野球がない時とか、G+でやってるのを何気なく観てますが、ゴング直後から意地の張り合いど突き合いしばき合い。テンションが上がるのはいいけど、どの試合も皆同じに見えてくる。
故・ジャイアント馬場が、長州力率いるジャパンプロレス勢が全日本プロレスのリングに侵攻し出した頃、そのハイスパートな試合展開を見て「シャムネコの喧嘩」と揶揄した事があるけど、今プロレスリング・ノアでやってる試合は、シャムネコどころか、行き場を失った野良猫の喧嘩に見える。
ハイスパートレスリングとは言えシャム猫の喧嘩とは言え、また昔はリング上で相対する二人にどんな因縁があろうと、どんな試合でもロックアップから始まり、そして腕、脚、バックの取り合い。
昔のプロレスってそうだったように思うけど、過激さを追い求めるがゆえいつの間にか、ゴング直後から安っぽい町の喧嘩のごとくの、ビンタを初め打撃技の応酬、趣向を凝らした、頭から真っ逆さまに落とすような、危険極まりない技の応酬だけがクローズアップされるようになってしまった。
話を元に戻してプロレスリング・ノア。
「三沢光晴の遺志を継ぐ」つもりで、エルボーバットの応酬とかやってるんだろうけど、三沢光晴のやってたプロレスリングって、打撃技と危険な投げ技ばかりではないはず。三沢光晴本人は「プロレスラーになるため」と割り切っていた、卓越したレスリング技術があってこそではなかったか。
かつて三沢光晴が力皇猛と組んで、当時のゼロワン、小川直也・村上一成と対戦した事があった。小川直也との初遭遇。三沢光晴は小川直也の首筋をねじ伏せ、完全に動きを封じてしまってた。
たった3年しか経験してない、しかもプロレスラーになる為の素地を作るための過程でしかなかった(アマチュア)レスリング。なのにその当時でも生きてたし生かされていた。三沢光晴の天性のモノかも知れないけど、今のノアの試合を見てても「すごいな」と思える技術が見えないのが残念。
三沢光晴の死去以降のプロレスリング・ノアは音を立てて崩れて行った。小橋建太が引退、秋山準も団体を離れ、田上明は社長業に専念。所属レスラー総勢26人(練習生込)で発足するも、今は10数人と、何もかもが変わった。変わっただけでなく、小さくなってしまったのは否定出来ない。
三沢光晴は昔「居酒屋でもやりながら選手を数人育成して、小さい興行を年に数回」みたいな理想を持っていたとか。ノア設立当時は屈指の大規模団体だったにも関わらず、今では小規模団体と言っても過言ではないだろう。敢えて言うなら、これが三沢光晴が待ち望んだ形に近いのかも知れない。
ただ、今ノアがやっている試合の進め方組み立て方は、果たして三沢光晴が望んだものなのか。
三沢光晴の言葉でひとつ、思い切り頷ける言葉がある。
ノア旗揚げの頃、全日本プロレスの「売り興行」として、どうしても4会場、出なければいけない試合があった。無論その試合は、地元興行主が、三沢光晴社長の全日本プロレスから買った興行。
そこで「裏切り者!」とヤジを飛ばされた。
悩み悩んで全日本プロレスを飛び出したばかりの三沢光晴は「その人の思い込みに何で従わねばいかんのか。その人が俺の一生を保障してくれるのか」と返した。もちろん新聞紙上での話ですが。
話が飛びますが、これってプロ野球のフリーエージェント宣言にも当てはまると思うんですよ。
フリーエージェント宣言して移籍する選手に向かって「若い頃から応援してたのに」とか「残念です」とか言うコメントを見聞きする。けど所詮ファンはファンなのであって、応援するだけであって、その選手の生活全般まで支援してるわけではない。ましてやその選手の行く末を決めれる立場にもない。
引き留める事は出来るけども、選手にもそれぞれ考え方があり感情もある。もちろん生活もある。フリーエージェント宣言で移籍した選手に、未だにブーイングを浴びせる傾向もあるけど、はっきり言って意味はないし、「気になりますか」って気にしてるわけがない。その選手の生活なんだし。
行った先で成功するか、失敗するかもその人の努力次第なんだし。他人が口出しすべきもんじゃない。ましてや「裏切り者」だのブーイングなど意味不明。自分でケツを拭く覚悟で出て行ったんだし。そのお客さん、そして入団したチームと一生涯の契約を結んだわけでもないんだし。
出て行ったなら、ただ暖かくもなく冷たくもなく、ただ見守るだけ。人の進む道は、誰も邪魔してはいけないし、邪魔していいものではない。その人が進む道がその人の「王道」なんだから。
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早いもので、もうあれから5年経過。そして私の歳もあの日の三沢光晴に追い付いてしまった。
歳は追い付いたものの、人生は雲泥の差。相変わらずのんべんだらりとした生活をしている私に比べ、46歳の三沢光晴は、プロレスリング・ノアの社長として、常に団体の最前線に立っていた。
「立っていた」た言うよりも、矢面に立たされていた、と言った方が良かったのかも知れない。末期の三沢光晴の体型は、「超世代軍」として全日本プロレスを背負っていた頃とは大きくかけ離れ、下腹に無駄な出っ張りが目立つだけの中年プロレスラーだった。歳だけではないものを感じた。
おそらくプロレスラーとしてよりも、プロレスリング・ノア代表取締役社長としての仕事に傾倒せざるを得なかったんだろう。面倒見の良かった人ゆえ、周囲の人間に気を遣わさないように無理をしてたんだろうな、とは思う。それこそトレーニングの時間すらままならなかったんだろうな。
そしてたった一発のバックドロップで何もかもに止めを刺されてしまった。いろいろ言われたけども、ぶっちゃけこんな事故にもならない限り、三沢光晴は休めなかったす、休まなかったろう。もしかしたら、誰かが試合中に「もういい、貴方はリング内外で十分戦った」と囁いたのかも知れない。
あの日のカープは、この二日間と全く同様に、西武ドームでライオンズとのセ・パ交流戦。週末土日の連戦で、私も初の西武ドーム観戦。デーゲームだったので夜行バスで往復での強行日程。
土曜日夕方、宿に戻る途中「プロレスで大変な事になってるらしい」とのメール。そして全てが判ったのは、観戦仲間との食事を終えて、再度宿に戻った深夜のインターネットの記事だった。
事故の数日前の大阪スポーツの一面に「三沢 引退」と出ていたのを覚えてます。ただ引退発表ではなく「体がキツイのでもうそろそろ、とは思ってるけど、辞めるに辞められない」苦しい胸の内を吐露した内容の記事。プロレスネタだけはガチな大阪スポーツ。とても笑うに笑えない内容だった。
二代目タイガーマスクだった三沢光晴の興した団体。
ジャンボ鶴田を倒したことのある三沢光晴の興した団体。
全日本プロレスの社長だった三沢光晴の興した団体。
肩書きは多数あるけど、それがプロレスリング・ノアのすべてであり、団体が出来て10年になろうとしているのに、それ以上でもそれ以下でもなく、そこから脱却出来なかった。ゆえに社長云々以前に、団体のエースとして三沢光晴か常に最前線に立ち続けなけれはらいけなかったんだんだろう。
どこの世界でも10年も経てば、ある程度の新陳代謝はなされるはずなのに、プロレスリング・ノアのトップと言えば相変わらず「全日本プロレス四天王(除:川田利明)」でだった。その「王道プロレス」全盛の頃川田利明が「こんな試合を続けていたらあと5、6年も持たない」とこぼしていたことがある。
それから10年以上は経ってしまったけど、川田利明の懸念がよりによって、そして残念な事に彼の高校の直接の先輩・三沢光晴によって現実のものとなってしまった。
たまにプロ野球がない時とか、G+でやってるのを何気なく観てますが、ゴング直後から意地の張り合いど突き合いしばき合い。テンションが上がるのはいいけど、どの試合も皆同じに見えてくる。
故・ジャイアント馬場が、長州力率いるジャパンプロレス勢が全日本プロレスのリングに侵攻し出した頃、そのハイスパートな試合展開を見て「シャムネコの喧嘩」と揶揄した事があるけど、今プロレスリング・ノアでやってる試合は、シャムネコどころか、行き場を失った野良猫の喧嘩に見える。
ハイスパートレスリングとは言えシャム猫の喧嘩とは言え、また昔はリング上で相対する二人にどんな因縁があろうと、どんな試合でもロックアップから始まり、そして腕、脚、バックの取り合い。
昔のプロレスってそうだったように思うけど、過激さを追い求めるがゆえいつの間にか、ゴング直後から安っぽい町の喧嘩のごとくの、ビンタを初め打撃技の応酬、趣向を凝らした、頭から真っ逆さまに落とすような、危険極まりない技の応酬だけがクローズアップされるようになってしまった。
話を元に戻してプロレスリング・ノア。
「三沢光晴の遺志を継ぐ」つもりで、エルボーバットの応酬とかやってるんだろうけど、三沢光晴のやってたプロレスリングって、打撃技と危険な投げ技ばかりではないはず。三沢光晴本人は「プロレスラーになるため」と割り切っていた、卓越したレスリング技術があってこそではなかったか。
かつて三沢光晴が力皇猛と組んで、当時のゼロワン、小川直也・村上一成と対戦した事があった。小川直也との初遭遇。三沢光晴は小川直也の首筋をねじ伏せ、完全に動きを封じてしまってた。
たった3年しか経験してない、しかもプロレスラーになる為の素地を作るための過程でしかなかった(アマチュア)レスリング。なのにその当時でも生きてたし生かされていた。三沢光晴の天性のモノかも知れないけど、今のノアの試合を見てても「すごいな」と思える技術が見えないのが残念。
三沢光晴の死去以降のプロレスリング・ノアは音を立てて崩れて行った。小橋建太が引退、秋山準も団体を離れ、田上明は社長業に専念。所属レスラー総勢26人(練習生込)で発足するも、今は10数人と、何もかもが変わった。変わっただけでなく、小さくなってしまったのは否定出来ない。
三沢光晴は昔「居酒屋でもやりながら選手を数人育成して、小さい興行を年に数回」みたいな理想を持っていたとか。ノア設立当時は屈指の大規模団体だったにも関わらず、今では小規模団体と言っても過言ではないだろう。敢えて言うなら、これが三沢光晴が待ち望んだ形に近いのかも知れない。
ただ、今ノアがやっている試合の進め方組み立て方は、果たして三沢光晴が望んだものなのか。
三沢光晴の言葉でひとつ、思い切り頷ける言葉がある。
ノア旗揚げの頃、全日本プロレスの「売り興行」として、どうしても4会場、出なければいけない試合があった。無論その試合は、地元興行主が、三沢光晴社長の全日本プロレスから買った興行。
そこで「裏切り者!」とヤジを飛ばされた。
悩み悩んで全日本プロレスを飛び出したばかりの三沢光晴は「その人の思い込みに何で従わねばいかんのか。その人が俺の一生を保障してくれるのか」と返した。もちろん新聞紙上での話ですが。
話が飛びますが、これってプロ野球のフリーエージェント宣言にも当てはまると思うんですよ。
フリーエージェント宣言して移籍する選手に向かって「若い頃から応援してたのに」とか「残念です」とか言うコメントを見聞きする。けど所詮ファンはファンなのであって、応援するだけであって、その選手の生活全般まで支援してるわけではない。ましてやその選手の行く末を決めれる立場にもない。
引き留める事は出来るけども、選手にもそれぞれ考え方があり感情もある。もちろん生活もある。フリーエージェント宣言で移籍した選手に、未だにブーイングを浴びせる傾向もあるけど、はっきり言って意味はないし、「気になりますか」って気にしてるわけがない。その選手の生活なんだし。
行った先で成功するか、失敗するかもその人の努力次第なんだし。他人が口出しすべきもんじゃない。ましてや「裏切り者」だのブーイングなど意味不明。自分でケツを拭く覚悟で出て行ったんだし。そのお客さん、そして入団したチームと一生涯の契約を結んだわけでもないんだし。
出て行ったなら、ただ暖かくもなく冷たくもなく、ただ見守るだけ。人の進む道は、誰も邪魔してはいけないし、邪魔していいものではない。その人が進む道がその人の「王道」なんだから。
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2014.06.13 / Top↑
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