無事(でもないですが)、自宅に帰ってきてます。

好天に恵まれた三日間。第52回JABA広島大会はそれこそ「無事に」広島東洋カープ(二軍)の優勝で幕を閉じ、めでたしめでたし、だったわけですが。21日に大阪に戻る前に行っておかなければいけない(どうしても、と言うわけでも無いんですが)場所と言うか「モノ」が一ヶ所、広島駅前に。
被爆ポンプ
どう辿って、その画像にたどり着いたのか覚えてません。基本的に閲覧履歴を満足に見返さない人なので、いつ頃見たのか、また検索結果がそうだったのか、そもそも通常のインターネットで見たのか、ツイッター上でリツイートを見たのか、すら覚えてませんが、強烈な印象の画像がありました。
現在、JR広島駅南口では、3ブロックに分けて盛大に「再開発事業」が進行中です。1999年に完成した「エールエールA館(福屋福屋広島駅前店)」も、駅前再開発事業の「Aブロック」なんですが。
で、まずはその東隣の「Bブロック」。

長らくこの場所には、老舗のホテル「ホテル川島」が建ってましたが、2012年11月30日をもって「3年間の休業」に入り、2016年春の「再オープン」を目指しています。
そう言えば将来的にはここを「広島電鉄の高架橋」が走ることになるんですな。その暁にはこの「Bブロック」も、広島駅と直結することになります。まだその高架橋工事は始まる気配はありません。
そして更に東隣の「Cブロック」。

メインの建物はパチンコ店「ナショナル会館」。その建物に沿って歩道があるんですが、そこに3か所「被爆ポンプ」が残されています。6か所あるそうですが、時間の都合でとりあえず3か所。

駅に面した側に1か所、更には猿猴橋町電停に向かう側に2か所。横断歩道の脇、電柱の陰、アーケードの柱の陰などなど、残されている環境は違いますが、しっかりと「根付いて」います。
まず、駅に一番近い側のポンプ。

既に「取っ手」の部分もなくなってるので、もう動かないでしょう。ただ、これだけ駅前が賑やかになったにもかかわらず、これだけが頑なに残されているのにはそれなりのワケがあるんでしょう。

大州通りのグリーンベルト?に渡る横断歩道の脇にあるポンプ。先のものとは様式が違いますが、これでも立派に「生活用水」を満たしていたんでしょう。

もう一つは、その横断歩道の数メートル奥の電柱の脇。縦か横かというだけで何の変化もない写真になってしまいましたが(笑)。これは一番最初に出てきたものと同じ「津田式」。しかもこれにはしっかりと手押しの部分が残っており、今でも現役なのか、とすら思わせます。
いずれのポンプにも、ビニール袋に入れられた千羽鶴がかけられ「被爆ポンプです 残してください」と言う短いメッセージが添えられています。頭が下がる思いです。
爆心地から約2kmの距離にある国鉄広島駅。原爆投下のその瞬間、駅舎は全焼、利用者や職員の方に死傷者が出ました。被災された方々は、水を求めて川へ避難し、亡くなられたと聞きます。
もちろん、このポンプにも人が群がったことと思います。当時の「牛田水源地」からの水の供給は止まってなかったそうですが、途中の水道管が破壊され、満足に末端まで供給されなかったとか、それでも水を求めてこののポンプを目指し、たどり着けぬままに命果てた方の事を思うと心が痛みます。
各再開発ブロックの建物も数年後には立ち並ぶことと思います。。おそらく周辺の歩道にも何らかの手が加えられるとは思います。ただ、勝手に思うのは、原爆ドームをここまで残してきた広島県・広島市なんだから、この程度のモノは残せないはずがない、などと思っています。
このポンプがいつ頃ここに建てられて、なぜここまで残されたのかはわかりません。それこそ「たまたま」かも知れませんが。しかし、少なくとも68年間、「75年間草木も生えぬ」とまで言われた広島市、さらには広島駅前の復興と発展を見てきた「黙して語らぬ生き証人」である事は確かです。
よそ者の私が言うべき事ではないかも知れませんが、ぜひ残していただきたい。そう思います。
以下、どれでもクリックして頂ければ是幸い。これからの励みになります。

好天に恵まれた三日間。第52回JABA広島大会はそれこそ「無事に」広島東洋カープ(二軍)の優勝で幕を閉じ、めでたしめでたし、だったわけですが。21日に大阪に戻る前に行っておかなければいけない(どうしても、と言うわけでも無いんですが)場所と言うか「モノ」が一ヶ所、広島駅前に。
被爆ポンプ
どう辿って、その画像にたどり着いたのか覚えてません。基本的に閲覧履歴を満足に見返さない人なので、いつ頃見たのか、また検索結果がそうだったのか、そもそも通常のインターネットで見たのか、ツイッター上でリツイートを見たのか、すら覚えてませんが、強烈な印象の画像がありました。
現在、JR広島駅南口では、3ブロックに分けて盛大に「再開発事業」が進行中です。1999年に完成した「エールエールA館(福屋福屋広島駅前店)」も、駅前再開発事業の「Aブロック」なんですが。
で、まずはその東隣の「Bブロック」。

長らくこの場所には、老舗のホテル「ホテル川島」が建ってましたが、2012年11月30日をもって「3年間の休業」に入り、2016年春の「再オープン」を目指しています。
そう言えば将来的にはここを「広島電鉄の高架橋」が走ることになるんですな。その暁にはこの「Bブロック」も、広島駅と直結することになります。まだその高架橋工事は始まる気配はありません。
そして更に東隣の「Cブロック」。

メインの建物はパチンコ店「ナショナル会館」。その建物に沿って歩道があるんですが、そこに3か所「被爆ポンプ」が残されています。6か所あるそうですが、時間の都合でとりあえず3か所。

駅に面した側に1か所、更には猿猴橋町電停に向かう側に2か所。横断歩道の脇、電柱の陰、アーケードの柱の陰などなど、残されている環境は違いますが、しっかりと「根付いて」います。
まず、駅に一番近い側のポンプ。


既に「取っ手」の部分もなくなってるので、もう動かないでしょう。ただ、これだけ駅前が賑やかになったにもかかわらず、これだけが頑なに残されているのにはそれなりのワケがあるんでしょう。


大州通りのグリーンベルト?に渡る横断歩道の脇にあるポンプ。先のものとは様式が違いますが、これでも立派に「生活用水」を満たしていたんでしょう。


もう一つは、その横断歩道の数メートル奥の電柱の脇。縦か横かというだけで何の変化もない写真になってしまいましたが(笑)。これは一番最初に出てきたものと同じ「津田式」。しかもこれにはしっかりと手押しの部分が残っており、今でも現役なのか、とすら思わせます。
いずれのポンプにも、ビニール袋に入れられた千羽鶴がかけられ「被爆ポンプです 残してください」と言う短いメッセージが添えられています。頭が下がる思いです。
爆心地から約2kmの距離にある国鉄広島駅。原爆投下のその瞬間、駅舎は全焼、利用者や職員の方に死傷者が出ました。被災された方々は、水を求めて川へ避難し、亡くなられたと聞きます。
もちろん、このポンプにも人が群がったことと思います。当時の「牛田水源地」からの水の供給は止まってなかったそうですが、途中の水道管が破壊され、満足に末端まで供給されなかったとか、それでも水を求めてこののポンプを目指し、たどり着けぬままに命果てた方の事を思うと心が痛みます。
各再開発ブロックの建物も数年後には立ち並ぶことと思います。。おそらく周辺の歩道にも何らかの手が加えられるとは思います。ただ、勝手に思うのは、原爆ドームをここまで残してきた広島県・広島市なんだから、この程度のモノは残せないはずがない、などと思っています。
このポンプがいつ頃ここに建てられて、なぜここまで残されたのかはわかりません。それこそ「たまたま」かも知れませんが。しかし、少なくとも68年間、「75年間草木も生えぬ」とまで言われた広島市、さらには広島駅前の復興と発展を見てきた「黙して語らぬ生き証人」である事は確かです。
よそ者の私が言うべき事ではないかも知れませんが、ぜひ残していただきたい。そう思います。
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2013.08.22 / Top↑
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