豪快に放て 宇品に向けて走れ 始まりの鐘が鳴る 広島電鉄
広島電鉄 平和願う心乗せ開業100周年 読売新聞関西版
広島市を中心に路面電車などを運行する広島電鉄が23日、開業100周年を迎える。車窓の風景は大きく変わったが、今も市民に親しまれ、原爆で壊滅的な被害を受けながらも、3日後に運行再開にこぎつけた歴史は、人々の記憶から消えることはない。
1945年8月6日朝、広島工業専門学校(現広島大)4年だった土岐(とき)龍一さん(87)(広島市西区)は、自宅近くで電車に乗り、勤労動員先に向かっていた。
午前8時15分。前の窓がオレンジ色に光った直後、ほぼ満員の車内は真っ暗になった。窓から必死に脱出すると、頭にはガラス片が刺さり、首は真っ赤に焼けていた。爆心地から1・4キロ。周りの家は全て壊れ、人々が下敷きになっていた。
広電では保有する車両123両の9割が損壊、社員ら185人が殉職した。生き残った社員らはすぐ、東京から来た陸軍の電信隊とともに復旧にあたった。
他社から送電線を譲り受け、船のマストを電柱に使った。軌道のがれきを撤去し、無事だった変電所から送電。同9日、わずか約1.5キロ区間だったが、電車を走らせることができた。
車掌の手記が残る。
『お金のない人からは電車賃をもらわんでも、ええで』と言うことでした。『おゝ電車が動くんか』と驚かれる人(もいた)
同社で社史を編さんする藤田睦さん(45)は「東日本大震災と同じで、社員は壊滅した街の復旧にはインフラが必要と考えたのです」と話す。3年後には全線がほぼ復旧し、焼け野原を走る姿は市民を勇気づけた。
原爆投下時に運行していた車両のうち、「650形」2両は今も現役だ。「被爆電車」と呼ばれ、毎年8月6日前後には車内で被爆体験を聞く会がある。
当時の電車には、出征した男性社員の代わりに、広電家政女学校の生徒も乗務していた。15歳だった岡田イツエさん(82)(広島県北広島町)は車掌として乗務中に被爆。別の電車に乗っていた同級生の行方は今もわからない。「悲惨な出来事を伝えるためにも、いつまでも被爆電車を走らせて」と願う。
67年前と同じ路線を今も使う土岐さんは「大きな被害を受けた広電が、多くの電車を走らせているのは感無量。次の100年も市民の足として活躍を」と話している。
広島電鉄 1912年(大正元年)11月23日、大林組創業者・大林芳五郎らが設立した前身の広島電気軌道が、広島駅前―相生橋など3路線6キロで開業。現在は国内最大の7路線約35キロ(宮島線含む)で、1日当たり約15万人が利用する。
大正元年(1912年)11月23日に、広島電鉄の前身「広島電気軌道」の手によって、広島駅前(現在の広島駅電停)~相生橋電停(現在の原爆ドーム前)、紙屋町電停~御幸橋西詰電停(現在の御幸橋電停)、ならびに八丁堀電停~白島電停が開業して、今日でちょうど100年が経ちます。
日々粛々と、100万都市広島の生活を支え続けています。
8月6日の原子爆弾投下にも屈することなく、8月9日には本線の一部、己斐電停(現在の広電西広島)から西天満町電停(現在の天満町電停あたり)までの2.8kmが復旧。そして3年後の12月には全線が復旧しました。
復旧復興と言う言葉に、鉄道はなくてはならないもの、かと思います。
阪神大震災の時、六甲道駅が崩壊してしまったJR神戸線(山陽本線)。4月1日には見事に復旧を果たしました。その当時の工事の様子は、後に「プロジェクトX」で映像化されていますが、それ以上の、世界でも類を見ない「苦難」を乗り越えている広島電鉄。
原子爆弾投下直後の逸話に関しては、7年前の中国新聞の特集「ヒロシマを聞く」でも紹介されていますが、21世紀の現代ならどうでしょうね。クルマ上位の社会になってしまった現在、「路面電車」と言えば何かと隅っこに追いやられてしまいがち、ゆえ「即刻廃止」になってもおかしくない。
しかしながら現在、広島電鉄をはじめとして
札幌市(市交通局)、函館市(市企業局交通部 )
東京都(都交通局荒川線、東急世田谷線)
豊橋市(豊橋鉄道東田本線)
富山市(富山地方鉄道市内軌道線本線他、富山ライトレール)
高岡市・射水市(万葉線)、福井市(福井鉄道福武線)
大津市(京阪電気鉄道京津線、石山坂本線)
京都市(京福電気鉄道嵐山本線、北野線)
大阪市・堺市( 阪堺電気軌道)
岡山市(岡山電気軌道)
高知市・南国市・いの町(土佐電気鉄道)
松山市(伊予鉄道)、長崎市(長崎電気軌道)
熊本市(市交通局 )鹿児島市(市交通局)
など、19都市18事業者が「路面電車」を走らせています。
よその経営状態はよく分かりませんが、阪堺電気軌道に関しては、経営の悪化により、一時堺市内を「分割公営化する」などの話が出てましたが(堺市も金がないらしい、です。公務員給与は全国トップレベル、らしいですが)、現在では堺市からの補助により、全区間200円均一等で、利用者数の拡大を図っています。東区民にはあんまり関係ないですが(笑)。
どこの事業者も、昭和40年代のモータリゼーションの波を受けながらも生き延びてきた事業者。その波をモロにかぶって崩壊してしまったのが、大阪市電であり、呉市電なんですが。
現在では、高知市の土佐電気鉄道では、JR高知駅の高架工事完成と同時に、駅入口の直前まで線路を延長、JRからの乗換客の不便を解消しています。福井鉄道では、JR福井駅前広場の再開発工事(駅前広場整備)に伴い、駅前広場への乗り入れを検討されているそうです。
広島電鉄は、ドイツから5000系電車「Green mover」を購入したり、近畿車輛・三菱重工業・東洋電機との共同開発で5100系電車「Green mover max」を開発したりと、積極的に世界的に導入されつつある「Light Rail Transit」化を目指しています。
また、具体化はされていませんが、JR広島駅自体の大規模な駅舎工事で、駅前広場の大規模な再開発により、広島駅停留所も大きく生まれ変わる可能性があります。一部では高架化だの地下化だの、と言う話が出てますが、一体どうなるんでしょうか。楽しみではありますけどね。
「やっぱりイ○バ 100人乗っても大丈夫」と言う某物置会社のキャッチコピーがありましたが「やっぱり広電 100年乗っても大丈夫」と言われるような電鉄会社になって欲しいものです。
100年の終わりと、101年目の始まり、おめでとうございます。
以下、どれでもクリックして頂ければ是幸い。これからの励みになります。
広島電鉄 平和願う心乗せ開業100周年 読売新聞関西版
広島市を中心に路面電車などを運行する広島電鉄が23日、開業100周年を迎える。車窓の風景は大きく変わったが、今も市民に親しまれ、原爆で壊滅的な被害を受けながらも、3日後に運行再開にこぎつけた歴史は、人々の記憶から消えることはない。
1945年8月6日朝、広島工業専門学校(現広島大)4年だった土岐(とき)龍一さん(87)(広島市西区)は、自宅近くで電車に乗り、勤労動員先に向かっていた。
午前8時15分。前の窓がオレンジ色に光った直後、ほぼ満員の車内は真っ暗になった。窓から必死に脱出すると、頭にはガラス片が刺さり、首は真っ赤に焼けていた。爆心地から1・4キロ。周りの家は全て壊れ、人々が下敷きになっていた。
広電では保有する車両123両の9割が損壊、社員ら185人が殉職した。生き残った社員らはすぐ、東京から来た陸軍の電信隊とともに復旧にあたった。
他社から送電線を譲り受け、船のマストを電柱に使った。軌道のがれきを撤去し、無事だった変電所から送電。同9日、わずか約1.5キロ区間だったが、電車を走らせることができた。
車掌の手記が残る。
『お金のない人からは電車賃をもらわんでも、ええで』と言うことでした。『おゝ電車が動くんか』と驚かれる人(もいた)
同社で社史を編さんする藤田睦さん(45)は「東日本大震災と同じで、社員は壊滅した街の復旧にはインフラが必要と考えたのです」と話す。3年後には全線がほぼ復旧し、焼け野原を走る姿は市民を勇気づけた。
原爆投下時に運行していた車両のうち、「650形」2両は今も現役だ。「被爆電車」と呼ばれ、毎年8月6日前後には車内で被爆体験を聞く会がある。
当時の電車には、出征した男性社員の代わりに、広電家政女学校の生徒も乗務していた。15歳だった岡田イツエさん(82)(広島県北広島町)は車掌として乗務中に被爆。別の電車に乗っていた同級生の行方は今もわからない。「悲惨な出来事を伝えるためにも、いつまでも被爆電車を走らせて」と願う。
67年前と同じ路線を今も使う土岐さんは「大きな被害を受けた広電が、多くの電車を走らせているのは感無量。次の100年も市民の足として活躍を」と話している。
広島電鉄 1912年(大正元年)11月23日、大林組創業者・大林芳五郎らが設立した前身の広島電気軌道が、広島駅前―相生橋など3路線6キロで開業。現在は国内最大の7路線約35キロ(宮島線含む)で、1日当たり約15万人が利用する。
大正元年(1912年)11月23日に、広島電鉄の前身「広島電気軌道」の手によって、広島駅前(現在の広島駅電停)~相生橋電停(現在の原爆ドーム前)、紙屋町電停~御幸橋西詰電停(現在の御幸橋電停)、ならびに八丁堀電停~白島電停が開業して、今日でちょうど100年が経ちます。
日々粛々と、100万都市広島の生活を支え続けています。
8月6日の原子爆弾投下にも屈することなく、8月9日には本線の一部、己斐電停(現在の広電西広島)から西天満町電停(現在の天満町電停あたり)までの2.8kmが復旧。そして3年後の12月には全線が復旧しました。
復旧復興と言う言葉に、鉄道はなくてはならないもの、かと思います。
阪神大震災の時、六甲道駅が崩壊してしまったJR神戸線(山陽本線)。4月1日には見事に復旧を果たしました。その当時の工事の様子は、後に「プロジェクトX」で映像化されていますが、それ以上の、世界でも類を見ない「苦難」を乗り越えている広島電鉄。
原子爆弾投下直後の逸話に関しては、7年前の中国新聞の特集「ヒロシマを聞く」でも紹介されていますが、21世紀の現代ならどうでしょうね。クルマ上位の社会になってしまった現在、「路面電車」と言えば何かと隅っこに追いやられてしまいがち、ゆえ「即刻廃止」になってもおかしくない。
しかしながら現在、広島電鉄をはじめとして
札幌市(市交通局)、函館市(市企業局交通部 )
東京都(都交通局荒川線、東急世田谷線)
豊橋市(豊橋鉄道東田本線)
富山市(富山地方鉄道市内軌道線本線他、富山ライトレール)
高岡市・射水市(万葉線)、福井市(福井鉄道福武線)
大津市(京阪電気鉄道京津線、石山坂本線)
京都市(京福電気鉄道嵐山本線、北野線)
大阪市・堺市( 阪堺電気軌道)
岡山市(岡山電気軌道)
高知市・南国市・いの町(土佐電気鉄道)
松山市(伊予鉄道)、長崎市(長崎電気軌道)
熊本市(市交通局 )鹿児島市(市交通局)
など、19都市18事業者が「路面電車」を走らせています。
よその経営状態はよく分かりませんが、阪堺電気軌道に関しては、経営の悪化により、一時堺市内を「分割公営化する」などの話が出てましたが(堺市も金がないらしい、です。公務員給与は全国トップレベル、らしいですが)、現在では堺市からの補助により、全区間200円均一等で、利用者数の拡大を図っています。東区民にはあんまり関係ないですが(笑)。
どこの事業者も、昭和40年代のモータリゼーションの波を受けながらも生き延びてきた事業者。その波をモロにかぶって崩壊してしまったのが、大阪市電であり、呉市電なんですが。
現在では、高知市の土佐電気鉄道では、JR高知駅の高架工事完成と同時に、駅入口の直前まで線路を延長、JRからの乗換客の不便を解消しています。福井鉄道では、JR福井駅前広場の再開発工事(駅前広場整備)に伴い、駅前広場への乗り入れを検討されているそうです。
広島電鉄は、ドイツから5000系電車「Green mover」を購入したり、近畿車輛・三菱重工業・東洋電機との共同開発で5100系電車「Green mover max」を開発したりと、積極的に世界的に導入されつつある「Light Rail Transit」化を目指しています。
また、具体化はされていませんが、JR広島駅自体の大規模な駅舎工事で、駅前広場の大規模な再開発により、広島駅停留所も大きく生まれ変わる可能性があります。一部では高架化だの地下化だの、と言う話が出てますが、一体どうなるんでしょうか。楽しみではありますけどね。
「やっぱりイ○バ 100人乗っても大丈夫」と言う某物置会社のキャッチコピーがありましたが「やっぱり広電 100年乗っても大丈夫」と言われるような電鉄会社になって欲しいものです。
100年の終わりと、101年目の始まり、おめでとうございます。
以下、どれでもクリックして頂ければ是幸い。これからの励みになります。


2012.11.23 / Top↑
見似太郎
初めてまして。高校生のころ(38年も前)バイクで走行中、前から来た電車が右折を始めて慌てて反対車線に逃げた事があります。
あの頃は邪魔くさいのぉと思っていました。今ではたまに広島に帰ると遠回りしても乗っています。
ところで江ノ電も一部藤沢市内で路面を走らせています。かなり狭い道なので車を運転するときは、ちょっと怖いです。
あの頃は邪魔くさいのぉと思っていました。今ではたまに広島に帰ると遠回りしても乗っています。
ところで江ノ電も一部藤沢市内で路面を走らせています。かなり狭い道なので車を運転するときは、ちょっと怖いです。
2012/11/23 Fri 09:40 URL [ Edit ]
苦行僧
はじめましてコメントありがとうございます。
江ノ電のアレは、軌道法で路線が敷設された頃の名残だそうで、現在はれっきとした「鉄道」だそうです。何度か乗ったことはありますが、まだ外から見たことはありません。次こそは。
江ノ電のアレは、軌道法で路線が敷設された頃の名残だそうで、現在はれっきとした「鉄道」だそうです。何度か乗ったことはありますが、まだ外から見たことはありません。次こそは。
2012/11/23 Fri 22:26 URL [ Edit ]
鳴尾浜子虎
苦行僧さん、更新お疲れ様です。
小生、隣りの岡山生まれの岡山育ちなんですが、広電の話を知りませんでした。母は「あの原爆の光は岡山からも見えた」と言います。
広電の100周年に改めて頭が下がる思いです。
(ちなみに小生の現在住んでる家から見える通天閣も、今年100周年ですね)
小生、隣りの岡山生まれの岡山育ちなんですが、広電の話を知りませんでした。母は「あの原爆の光は岡山からも見えた」と言います。
広電の100周年に改めて頭が下がる思いです。
(ちなみに小生の現在住んでる家から見える通天閣も、今年100周年ですね)
2012/11/25 Sun 11:28 URL [ Edit ]
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