たまには、こんなネタで間を持たせてみます。
広電最後の木造駅舎が解体へ 中国新聞

広島電鉄(広島市中区)の電車の駅・電停のうち木造で唯一残る、宮島線の廿日市駅(廿日市市廿日市)の駅舎が今秋、移設のため解体される。大正時代の開業時から地域を見守った駅に、地元では惜別の声が相次ぐ。有志のグループは8日、さよならイベントを開催する。
同駅は1924(大正13)年に廿日市町駅として開業。当時は路線の終点だった。戦前の改修工事などを経て現存する駅舎は木造平屋約25平方メートル。ホームにつながる待合室に残る出札窓口や鉄製の改札口が往時をしのばせる。出札窓口は、2005年に業務を終えていた。
市が本年度着工する沿線道路と駅前の整備事業に伴い、広電は10月以降に駅舎の解体を始め、新たなホームを約50メートル東側に移設する予定。新駅は来年3月末の供用開始を目指す。
「長い間お世話になりました」「寂しい」―。待合室に置かれた1冊の大学ノートには、通勤・通学で利用した思い出や感謝の言葉が手描きでつづられる。
終戦後の48年から50年余り、駅舎の売店を夫婦で営んだ和田トモエさん(90)は「昔は駅前から路線バスが発着し、足の踏み場のないくらい多くの人が行き来した」と懐かしむ。「人生の大半は駅舎と共にあった。最後まで見届けたい」
8日午後1時から駅舎であるイベントは、広島や廿日市市のファンでつくる「路面電車を考える会」などが主催。オリジナルの「切符」500枚を待合室で配布するほか、昔の駅前風景の写真パネルも展示する。
【写真説明】広電で唯一残る廿日市駅の木造駅舎。秋にも解体が始まる
撮影:苦行僧(2005年11月13日 以下写真全て同日)
私苦行僧が初めてヒロシマの地に降り立ったのは1990年頃。その頃は、増発されだした夜行高速バスに乗って「2白3日車中2泊」みたいな旅を月に1回、行うのが常となってました。
その当時は南海堺東駅発呉駅前行と言うバスがございまして。現在では経路が変わってしまい、呉駅前には行かなくなたようですが。とにかく「路面電車の博物館」とまで言われていた「広電」を一度見てみたい、と言う思いだけで、わざわざ広島まで出かけたものです。
当時の広島電鉄宮島線は、通常の私鉄よりちょっと全長が短いだけの車両、いわゆる「高床車」の末期であり、己斐駅(現在の広電西広島駅)の片隅に、ボロボロの中古車が休んでいたのを覚えてます。しかしながら、その高床車が走るところはお目にかかれず、でしたが。
そして何の気なしに途中下車したこの広電廿日市駅。その駅舎の旧さのに驚き、そして「いずれこんなボロい駅舎は取り壊される。その前にこんな駅舎の写真を集めて回りたい」と考えました。
時は過ぎてインターネットとパソコンが一般にもごく当たり前に普及しだした2000年。「写真を集めて回りたい」と言うささやかな夢は「鉄道雑学研究所」と言うウェブサイトで開花しました(笑)。
上の写真は、ページ改編の時に撮影したものですが、この当時すでに窓口営業は末期。当然休日はお休み。もちろんわしが行ったのも日曜日だったので休みでした。

駅舎内のベンチに座る人もなく、駅舎自身の役割も、ただ待ち合わせのための雨宿りの場、と化してしまってましたが、それでもやはり「駅」と言うのは、誰かが何処かに行く時の出発点、誰かが街に帰ってくるときに出迎えてくれる場所。そんな所に「何もなくなってしまう」のはつまらんですよね。
この駅舎のおかげで、広電廿日市駅には、まだ「高床車ホーム」が残っていましたが、これもこの駅舎の取り壊しで解消されるものと思われます。駅を出るのに、低いホームから高いホームに出て、それからスロープを降りて、ってのも面倒くさい話。これもなくなるでしょう。
ノスタルジーに浸るのもいいとは思いますが、これも「回る回るよ時代は回る」。バリアフリーの言葉には勝てなだ、と言えばそれまでですが、ぜひ新駅舎にも、旧駅舎のエッセンスみたいなのがあればな、と思います。あんまり関係ないとは思いますが、下記写真の「柵」をホーム端に残したり。

せっかくここまで風雪に耐えてきたんだから、どこか一部に「魂」は残したいなぁ。
また一つヒロシマから大正・昭和が消えます。
野球とはこれっぽっちも関係ないですが、どれでもクリックして頂ければ是幸い。これからの励みになります。
広電最後の木造駅舎が解体へ 中国新聞

広島電鉄(広島市中区)の電車の駅・電停のうち木造で唯一残る、宮島線の廿日市駅(廿日市市廿日市)の駅舎が今秋、移設のため解体される。大正時代の開業時から地域を見守った駅に、地元では惜別の声が相次ぐ。有志のグループは8日、さよならイベントを開催する。
同駅は1924(大正13)年に廿日市町駅として開業。当時は路線の終点だった。戦前の改修工事などを経て現存する駅舎は木造平屋約25平方メートル。ホームにつながる待合室に残る出札窓口や鉄製の改札口が往時をしのばせる。出札窓口は、2005年に業務を終えていた。
市が本年度着工する沿線道路と駅前の整備事業に伴い、広電は10月以降に駅舎の解体を始め、新たなホームを約50メートル東側に移設する予定。新駅は来年3月末の供用開始を目指す。
「長い間お世話になりました」「寂しい」―。待合室に置かれた1冊の大学ノートには、通勤・通学で利用した思い出や感謝の言葉が手描きでつづられる。
終戦後の48年から50年余り、駅舎の売店を夫婦で営んだ和田トモエさん(90)は「昔は駅前から路線バスが発着し、足の踏み場のないくらい多くの人が行き来した」と懐かしむ。「人生の大半は駅舎と共にあった。最後まで見届けたい」
8日午後1時から駅舎であるイベントは、広島や廿日市市のファンでつくる「路面電車を考える会」などが主催。オリジナルの「切符」500枚を待合室で配布するほか、昔の駅前風景の写真パネルも展示する。
【写真説明】広電で唯一残る廿日市駅の木造駅舎。秋にも解体が始まる
撮影:苦行僧(2005年11月13日 以下写真全て同日)
私苦行僧が初めてヒロシマの地に降り立ったのは1990年頃。その頃は、増発されだした夜行高速バスに乗って「2白3日車中2泊」みたいな旅を月に1回、行うのが常となってました。
その当時は南海堺東駅発呉駅前行と言うバスがございまして。現在では経路が変わってしまい、呉駅前には行かなくなたようですが。とにかく「路面電車の博物館」とまで言われていた「広電」を一度見てみたい、と言う思いだけで、わざわざ広島まで出かけたものです。
当時の広島電鉄宮島線は、通常の私鉄よりちょっと全長が短いだけの車両、いわゆる「高床車」の末期であり、己斐駅(現在の広電西広島駅)の片隅に、ボロボロの中古車が休んでいたのを覚えてます。しかしながら、その高床車が走るところはお目にかかれず、でしたが。
そして何の気なしに途中下車したこの広電廿日市駅。その駅舎の旧さのに驚き、そして「いずれこんなボロい駅舎は取り壊される。その前にこんな駅舎の写真を集めて回りたい」と考えました。
時は過ぎてインターネットとパソコンが一般にもごく当たり前に普及しだした2000年。「写真を集めて回りたい」と言うささやかな夢は「鉄道雑学研究所」と言うウェブサイトで開花しました(笑)。
上の写真は、ページ改編の時に撮影したものですが、この当時すでに窓口営業は末期。当然休日はお休み。もちろんわしが行ったのも日曜日だったので休みでした。

駅舎内のベンチに座る人もなく、駅舎自身の役割も、ただ待ち合わせのための雨宿りの場、と化してしまってましたが、それでもやはり「駅」と言うのは、誰かが何処かに行く時の出発点、誰かが街に帰ってくるときに出迎えてくれる場所。そんな所に「何もなくなってしまう」のはつまらんですよね。
この駅舎のおかげで、広電廿日市駅には、まだ「高床車ホーム」が残っていましたが、これもこの駅舎の取り壊しで解消されるものと思われます。駅を出るのに、低いホームから高いホームに出て、それからスロープを降りて、ってのも面倒くさい話。これもなくなるでしょう。
ノスタルジーに浸るのもいいとは思いますが、これも「回る回るよ時代は回る」。バリアフリーの言葉には勝てなだ、と言えばそれまでですが、ぜひ新駅舎にも、旧駅舎のエッセンスみたいなのがあればな、と思います。あんまり関係ないとは思いますが、下記写真の「柵」をホーム端に残したり。

せっかくここまで風雪に耐えてきたんだから、どこか一部に「魂」は残したいなぁ。
また一つヒロシマから大正・昭和が消えます。
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2012.09.04 / Top↑
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