避けては通れぬ7月20日。こんな日に、プロ野球オールスターゲーム第一戦。そして殿堂入り表彰。死してさえ、何かしら「持ってる」と言わざるを得ません。
新たに野球殿堂入りの北別府、津田氏を表彰 スポニチ
ことし新たに野球殿堂入りした元広島の北別府学氏と故津田恒実氏の表彰式が20日、京セラドーム大阪でのマツダオールスターゲーム第1戦の試合前に行われた。
北別府氏は広島のエース、津田氏は抑えとして活躍した。通算213勝の北別府氏は「(津田氏にも)力を借りた。残りの人生で野球界のために尽力していきたい」と感慨に浸った。
「炎のストッパー」と呼ばれた津田氏は1993年7月20日に脳腫瘍のため32歳で死去。命日に当たる日の表彰となった。現役時代にはオールスター戦を観戦できなかったという妻の晃代さんは「『今度招待する』と言ってくれていた」との津田氏の言葉を紹介。「約束を果たしてくれた。野球選手としてすごく幸せだったと思います」と喜びを語った。
津田恒美さんの命日。
毎年巡ってくるもんではあるし、ただの365分の1日ではありますが。
津田さんが亡くなられたのも、1993年7月20日。その年のプロ野球オールスターゲーム第一戦の日。時間的には試合が始まる前でしたが、表沙汰になったのは試合中でした。
何でわざわざ試合中に発表したのか、試合中にテロップを出さないといかんかったのかは分かりませが、誰かが死んだ的なテロップで、あれだけ衝撃的なのはあれ以来ないです。プロ野球をやってる最中に、馴染みのあるプロ野球選手が亡くなった話がテロップで出てくるんだから。
しかし、オールスターゲームに奥さんを招待したことなかったってのはどうなんだ(笑)
【復刻】炎のストッパー津田投手が死去 日刊スポーツ復刻版
1982年(昭57)新人王、名ストッパーとして活躍した元広島投手の津田恒美(つだ・つねみ)さんが20日午後2時45分、脳腫瘍(しゅよう)のため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去した。32歳。くしくも、津田さんが5回も出場し快速球を披露したオールスター第1戦の当日、2年余りの長い闘病生活にピリオドを打った。プロ通算生活10年間で49勝41敗90セーブ。早すぎる死に球宴会場の東京ドームは関係者が驚きとともに、深い悲しみに包まれていた。
だれもが「本当ですか!?」と絶句した。巨人長嶋監督らセ・ベンチはもちろん、西武清原らパ・ベンチの関係者も声を失った。津田さん死去の悲報は、球宴開幕のセレモニー直前、両軍関係者に届いた。元同僚の広島大野は「信じられない。津田は元気になると、自分に言い聞かせていたのに」と目を潤ませた。
オールスターには5回出場し、いつもバネの利いた躍り上がるようなフォームで剛速球を披露した。元気でいれば、この日もこの舞台で快投を演じたことだろう。まだ32歳。闘病中だったのは大半の関係者が知っていたが、この若さで逝ってしまった稀有(けう)な才能に、だれもが言葉を失った。
炎のストッパーが病魔に襲われたのは一昨年のことだった。91年の春季キャンプ中から頭痛を訴えて、同年開幕直後の4月16日、風邪による体調不良を理由に登録を抹消された。そして5月15日、上土井取締役球団部長が緊急会見を開き、津田さんが「水頭症」であることを発表(当時、脳腫瘍であることの発表は周囲の動揺を避けるため控えられた)。同20日に準支配下選手とした。
その後、福岡市内の病院で治療を受けたものの、過激な運動はもう無理と判断された。広島の優勝が決定する前に本人から、退団届が提出された。球団は本人の意思を尊重して、同年11月6日付で退団を受理した。新人王に輝き、86年は優勝に貢献。89年には40SPで最優秀救援投手賞を獲得した津田さんはプロ10年目で、31歳だった。90年こそ故障に見舞われたが、まだまだ現役で投げられる年齢なのに、病魔に野球生命を奪われてしまった。
昨年3月末のこと。津田さんは博多遠征中のチーム宿舎へ陣中見舞いに訪れた。元気そうな姿に山崎隆、北別府らは安心した。「広島では現役として復帰させてもらえないだろうから、博多が本拠地のダイエーの入団テストでも受けて、もう一度マウンドに立とうかな」と、津田さんはかつてのチームメートに笑顔でもらしたという。ひょうきんな性格でナインのだれからも愛された男。生きがいを奪われても陽気に振る舞った。
会話も不自由な状態に陥ったり、奇跡的な回復を見せたり一進一退が続いた。今年3月のオープン戦中、チームの福岡遠征の折、山本監督は正田選手会長、山崎隆を連れて見舞いに行った。その時にはやせほそった痛ましい姿だった。それでも奇跡的な回復を信じ、山本監督らは津田さんに励ましの言葉をかけた。
願いはかなわず、帰らぬ人となった津田さん。あまりに若すぎる死だった。
(以下省略)
3年前でしたか。「夜の福岡の街」を歩き回る機会がありまして、記事中にある「済生会福岡総合病院」の窒化雨を通りかかったことがあったんですが、さすがに無駄に泣けましたね。ただただ漠然と「ああ、ここが『終』だったか」などと訳の分からんことを考えてましたが
弱気は最大の敵
津田さんの言わば「座右之銘」であります。この言葉、今のカープ選手は、肝に命じてるかな。
旧広島市民球場からマツダスタジアムに受け継がれた「津田プレート(正式には『津田恒美顕彰板』と言うそうですが)」。現在は一塁側ブルペンとベンチを結ぶ通路に設置されてるとか。またレプリカも、ライトスタンド下のスポーツバーに展示されているそうです。
先の言葉、ピッチャーだけじゃないですよね。どの選手にも言えること。どのポジション、どのプレイにでも言えること。ちょっとでも弱気になったら、簡単にさばけるゴロすら取れない、悪送球になる。バットにボールがかすらない、ヒットが出なくなる。
強気、とまでは行かないまでも、ナニをするにも自信を持ってやれば、結果は必ず付いてくる。不安があるのならそれを練習で補えばいい。練習で思う存分鍛えたのであれば「俺はこれだけやったんだ」と自信につながるはず。それは必ず結果となって表れてくるはず。
それを津田さんは、極々短い言葉で、今の選手に教えてくれてるはず。
肉体は死すとも、津田恒美の魂は、まだどこかで生きています。
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新たに野球殿堂入りの北別府、津田氏を表彰 スポニチ
ことし新たに野球殿堂入りした元広島の北別府学氏と故津田恒実氏の表彰式が20日、京セラドーム大阪でのマツダオールスターゲーム第1戦の試合前に行われた。
北別府氏は広島のエース、津田氏は抑えとして活躍した。通算213勝の北別府氏は「(津田氏にも)力を借りた。残りの人生で野球界のために尽力していきたい」と感慨に浸った。
「炎のストッパー」と呼ばれた津田氏は1993年7月20日に脳腫瘍のため32歳で死去。命日に当たる日の表彰となった。現役時代にはオールスター戦を観戦できなかったという妻の晃代さんは「『今度招待する』と言ってくれていた」との津田氏の言葉を紹介。「約束を果たしてくれた。野球選手としてすごく幸せだったと思います」と喜びを語った。
津田恒美さんの命日。
毎年巡ってくるもんではあるし、ただの365分の1日ではありますが。
津田さんが亡くなられたのも、1993年7月20日。その年のプロ野球オールスターゲーム第一戦の日。時間的には試合が始まる前でしたが、表沙汰になったのは試合中でした。
何でわざわざ試合中に発表したのか、試合中にテロップを出さないといかんかったのかは分かりませが、誰かが死んだ的なテロップで、あれだけ衝撃的なのはあれ以来ないです。プロ野球をやってる最中に、馴染みのあるプロ野球選手が亡くなった話がテロップで出てくるんだから。
しかし、オールスターゲームに奥さんを招待したことなかったってのはどうなんだ(笑)
【復刻】炎のストッパー津田投手が死去 日刊スポーツ復刻版
1982年(昭57)新人王、名ストッパーとして活躍した元広島投手の津田恒美(つだ・つねみ)さんが20日午後2時45分、脳腫瘍(しゅよう)のため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去した。32歳。くしくも、津田さんが5回も出場し快速球を披露したオールスター第1戦の当日、2年余りの長い闘病生活にピリオドを打った。プロ通算生活10年間で49勝41敗90セーブ。早すぎる死に球宴会場の東京ドームは関係者が驚きとともに、深い悲しみに包まれていた。
だれもが「本当ですか!?」と絶句した。巨人長嶋監督らセ・ベンチはもちろん、西武清原らパ・ベンチの関係者も声を失った。津田さん死去の悲報は、球宴開幕のセレモニー直前、両軍関係者に届いた。元同僚の広島大野は「信じられない。津田は元気になると、自分に言い聞かせていたのに」と目を潤ませた。
オールスターには5回出場し、いつもバネの利いた躍り上がるようなフォームで剛速球を披露した。元気でいれば、この日もこの舞台で快投を演じたことだろう。まだ32歳。闘病中だったのは大半の関係者が知っていたが、この若さで逝ってしまった稀有(けう)な才能に、だれもが言葉を失った。
炎のストッパーが病魔に襲われたのは一昨年のことだった。91年の春季キャンプ中から頭痛を訴えて、同年開幕直後の4月16日、風邪による体調不良を理由に登録を抹消された。そして5月15日、上土井取締役球団部長が緊急会見を開き、津田さんが「水頭症」であることを発表(当時、脳腫瘍であることの発表は周囲の動揺を避けるため控えられた)。同20日に準支配下選手とした。
その後、福岡市内の病院で治療を受けたものの、過激な運動はもう無理と判断された。広島の優勝が決定する前に本人から、退団届が提出された。球団は本人の意思を尊重して、同年11月6日付で退団を受理した。新人王に輝き、86年は優勝に貢献。89年には40SPで最優秀救援投手賞を獲得した津田さんはプロ10年目で、31歳だった。90年こそ故障に見舞われたが、まだまだ現役で投げられる年齢なのに、病魔に野球生命を奪われてしまった。
昨年3月末のこと。津田さんは博多遠征中のチーム宿舎へ陣中見舞いに訪れた。元気そうな姿に山崎隆、北別府らは安心した。「広島では現役として復帰させてもらえないだろうから、博多が本拠地のダイエーの入団テストでも受けて、もう一度マウンドに立とうかな」と、津田さんはかつてのチームメートに笑顔でもらしたという。ひょうきんな性格でナインのだれからも愛された男。生きがいを奪われても陽気に振る舞った。
会話も不自由な状態に陥ったり、奇跡的な回復を見せたり一進一退が続いた。今年3月のオープン戦中、チームの福岡遠征の折、山本監督は正田選手会長、山崎隆を連れて見舞いに行った。その時にはやせほそった痛ましい姿だった。それでも奇跡的な回復を信じ、山本監督らは津田さんに励ましの言葉をかけた。
願いはかなわず、帰らぬ人となった津田さん。あまりに若すぎる死だった。
(以下省略)
3年前でしたか。「夜の福岡の街」を歩き回る機会がありまして、記事中にある「済生会福岡総合病院」の窒化雨を通りかかったことがあったんですが、さすがに無駄に泣けましたね。ただただ漠然と「ああ、ここが『終』だったか」などと訳の分からんことを考えてましたが
弱気は最大の敵
津田さんの言わば「座右之銘」であります。この言葉、今のカープ選手は、肝に命じてるかな。
旧広島市民球場からマツダスタジアムに受け継がれた「津田プレート(正式には『津田恒美顕彰板』と言うそうですが)」。現在は一塁側ブルペンとベンチを結ぶ通路に設置されてるとか。またレプリカも、ライトスタンド下のスポーツバーに展示されているそうです。
先の言葉、ピッチャーだけじゃないですよね。どの選手にも言えること。どのポジション、どのプレイにでも言えること。ちょっとでも弱気になったら、簡単にさばけるゴロすら取れない、悪送球になる。バットにボールがかすらない、ヒットが出なくなる。
強気、とまでは行かないまでも、ナニをするにも自信を持ってやれば、結果は必ず付いてくる。不安があるのならそれを練習で補えばいい。練習で思う存分鍛えたのであれば「俺はこれだけやったんだ」と自信につながるはず。それは必ず結果となって表れてくるはず。
それを津田さんは、極々短い言葉で、今の選手に教えてくれてるはず。
肉体は死すとも、津田恒美の魂は、まだどこかで生きています。
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2012.07.20 / Top↑
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