先日、故津田恒美さんと、北別府学さんと言う、80年代カープの象徴とも言える、OBお二方が「野球殿堂」入りされ、どこの新聞でも大々的に取り上げられました。ブログでも取り上げられたファンの方は数限りなくおられると思います。

とは言うものの、当時のわしはタイガースファン。北別府・津田と言えば「にっくき敵」でしかなかったもんです(笑)。ゆえに、お二方お事をとやかく言う立場にはございません。

ただ、よく分からないのは

野球殿堂って何?

と言う根本的な話。

野球体育博物館では「日本の野球の発展に大きな貢献した方々の功績を永久に讃え、顕彰するため」とありますが、これの基準がよく分からないと言うか不明瞭と言うか。

ウィキペディアで見ましたが、いつの間にか「プレイヤー部門」と「エキスパート部門」に分かれてる。ここに「特別表彰」なんかがある。色々事業をやりだした会社みたいなもんで、行き先を見失ってるようなきもします。表彰自体にありがたみがなくなってるというか。

「名誉で表彰」して、その後は?何もなし?レリーフだけ?そんなんやったら何の意味もない「名誉」と言う言葉に尽く弱い日本人らしい、と言えばらしいんでしょうけどね。プレーヤー部門にしろ、エキスパート部門にしろ、引退した人が対象となってること。これってどうなんかなぁ。

ましてや故人の表彰なんざ、何の意味もない。表彰されるべき本人がおらんのだから。

ただ、故人であれ存命の方であれ、語り継いでくれる人、そんな人が多ければ多いほどいい。そんな人が多ければ多いほど「殿堂入り」に意味を持たない人は多いんじゃないでしょうかね。


これと似たような賞(だと思います)に「正力松太郎賞」と言うのがあります。これも基本的に「プロ野球の発展に大きく貢献した人物(監督・コーチ・選手・審判)に贈られる。」とされてます。まぁこっちの場合は、監督を中心として「存命の人物」なのが大きく違うところでしょうか。

とは言うものの、これは読売新聞社のエゴみたいなもんでしょうけど。



 「炎のストッパー」魂 指導の礎
 殿堂入り 亡き津田さんと親交 オリ・清川コーチ

脳腫瘍で32歳の若さで亡くなり、13日に野球殿堂入りした元広島の抑え投手、津田恒実さんを兄のように慕った人がいる。現役時代に広島の救援投手として苦楽をともにした、オリックスの清川栄治・二軍投手コーチ(50)。「炎のストッパー」の魂を受け継ぎ、今後も指導に生かしていきたいという。

「あの人は照れ屋やったなあ――」。1歳下だった清川さんは、1986年、プロ3年目で一軍に定着すると自然と打ち解けた。互いに中継ぎで同じ時間帯にブルペンに入ることが多く、年齢が近いこともあって、いつも一緒だった。

マウンドでは強気で押すのに、ユニホームを脱げば愛嬌たっぷり。試合で打ち込まれると、夜中にホテルのドアをノックして「寝とった?俺、寝れんわ」とはにかんだ。寮の門限を破ると、頭をかいて言い訳をする、飾らない人柄が、大好きだった。

91年5月。近鉄へのトレードが決まった清川さんは、津田さんを見舞った。移籍を告げると、踊り場に連れ出され「行くな」と泣きつかれた。近鉄のカラーは広島と同じ赤色。「ベルトをもらえますか。向こうで使います」と頼んだ。新天地では、ピンチのたびにベルトを握りしめた。

亡くなったのは93年7月20日。翌朝のスポーツ新聞は、今も大切に残してある。リリーフに失敗した翌日、早朝から球場で黙々と走っていた姿を忘れることはない。こーちになってからは、痛打を浴びた抑え投手に「失敗は汗で流せ」と伝えてきた。

殿堂入りが決まってすぐ、宛先を「津田恒実さま」tぉして祝電を打った。球宴前に行われる表彰式は、命日の7月20日、場所はオリックスの本拠地・京セラドーム大阪。19年の年月を経て、もう一度、あの笑顔に会いにいく。



こうやって「魂」は受け継がれるはずです。つか、一番受け継がんといかんのは、今カープにいてる選手全員、のはず。津田さん同様の信念と情熱を持って、プレー出来てる選手がいてるかどうか。

当然、もう真似は出来んし、そのまま受け継げる人も少なくなっています。野村謙二郎監督は「チームにもいい励みになった。(中略)目標にしてほしい。 」と言うてるけど、そんな安易な道じゃない。

もうそろそろ勝たないと、目標は目標のままで終わってしまうよ。

目標は、目標でも終着点でもない。超えるべきものなんだ。



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2012.01.19 / Top↑
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